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アラン・チューリングの限界―自然言語、生命、自動運転に関する考察

記事の内容について少しだけ先出し!

情報科学や論理学で重要な考え方として、「形式化」というものがあります。これはプログラムの考え方そのものでもありますが、世界の事象の在り方や働きの「本質」を抽出し、その定義のみからその事象を再現できるように、厳密に定義されたモデルを構築する営みのことです。Turing機械が、人間の知的活動を形式化したモデルであると同時に、計算とは何かを理解するための道具となっているように、我々情報科学に従事する人々はこのような形式化をもって物事を理解しようとすることが多いと思います。また、形式化は自律的なシステムを構築する力も持っています。現代のコンピューターが最たる例であり、それを通じて、物事を(究極的に)客観的に捉えることができるようになります。
私は1年前は(情報科学のFreshmanらしく)こうした形式化の力を信じ切っていたのですが、この1年で経験したことで、現実世界での問いに対して形式化は本当にふさわしい武器なのだろうか、という疑問が生じてきました。この疑問は、この1年間の生成AIの進歩などによってきっと多くの方が思ったことと本質的には同じなのではないかと思いました。そのため、このことについて考えて、まとめることにしました。
記事では、私が1年間で経験したことを基に、主に自然言語、生命といった対象に対する形式的な手法の限界を明らかにした後、自動運転などの現実世界の複雑な現象に立ち向かうべき問題に対してどういう手法が適しているのかについて考察したいと思います。

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